小諸城
 上田からしなの鐡道に乗って小諸に着いた。しなの鉄道は元信越本線だから本数は多い。一時間に二本くらいの割合で走っているので、あまり時間を気にせず乗れるのがいいところだ。
 小諸に来るのは久しぶりだ。前回来たときは確か駅の裏にある懐古園に足を運んだ。今回もそこに行く。前回は懐古園が城跡だということを知らないまま園内歩いた。公園という感覚だったのだ。懐古園は「小諸城」の跡なのである。
 前回は地下道を通って線路の下から入口にアクセスしたが、近年造られたと思われる立派な跨線橋が立っていた。屋根は瓦で雰囲気満点である。
 跨線橋を下りて少し行くと、地下道の出口と合流し、懐古園の門の前に出る。入口の近くに懐古園の案内マップ、というか小諸城の見取図ともいうべき地図があった。実はこの小諸城は他の城にはない大きな特徴があるのだ。
 普通の城は町よりも高くそびえ、町を見下ろすように立っている。町の警護だったり、敵襲を見張るためだったり、理由はいくつかあるだろうが、そのように造られているものが多い。
 だが、この小諸城は違う。町より城が低い位置にあるのだ。つまり門の場所が一番高い所で、城の奥に行くほどに低い位置になっていく。一番奥は千曲川の崖になっている。この変わった造りは「穴城」と呼ばれるもので、非常に珍しいものなのである。
 この変わった設計の小諸城を普請(城の設計)したのは、武田氏の家臣であり、大河ドラマ「風林火山」の主人公にもなった山本勘助と言われている。上田城を普請したのは真田昌幸(真田幸村こと真田信繁の父)だが、真田氏も元々武田氏の家臣だった。武田氏の城は個性的な名城が多く、ここ信濃や本拠の甲斐、のちに領地としていく駿河や遠江にも武田氏の関わった個性的な城は多い。
 ということで、小諸城を見ていこう。上田城、小諸城と大河ドラマの主人公に関連した城めぐりの旅の後半戦である。
(RICOH GR)
2018.02.07 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
上田城
 小千谷駅からは、長岡からやってきた飯山線直通の列車に乗る。日曜の朝のローカル線は空いている。雪まつりで知られる十日町を過ぎたあたりから雪が深くなってきた。
 無人駅のホームは雪で埋もれ、山も樹木もひたすら白だ。飯山線は日本有数の豪雪地帯のローカル線なのである。
 戸狩野沢温泉駅で長野行きに乗り換えとなった。長野県は新潟県とは異なり晴れである。地面に雪は残るが空は青い。千曲川の水面が美しく空を映し出している。
 長野駅からは、しなの鉄道となる。上田駅に到着すると大河ドラマ「真田丸」のテーマが流れてきた。写真を撮ったりして、ゆっくりと階段を上がり、真田関連のおみやげが並ぶ店を過ぎ、改札口に来たところで、ちょうどテーマ曲は終わった。
 駅の入口にも真田家の家紋である「六文銭」が描かれ、とにかくあちこちに真田家にちなんだものが溢れている。上田は真田家の町。そんな演出なのである。
 私は徒歩で上田城に向かった。脳内に真田丸のテーマが再生される。二十分ほどで到着した。上田城は街中にあり、市民の公園として親しまれている。道路などの位置からは少し高くなっているので眺めもいい。真田石という良質の石を用いた石垣も立派で、門の雰囲気もいい。
 戦国時代は真田氏の城だった上田城には真田神社がある。訪問の挨拶ということで参拝して、次は堀に沿って城の周りを歩いた。
 江戸時代は仙石氏の城となった上田城の堀は、やはり江戸期の城らしさに溢れる大きなもので、水は凍っていた。それがまた風流である。
 帰り際、すれ違ったボランティアガイドのお姉さんが笑顔で挨拶してきた。青空の下、どこまでも雰囲気の明るさが印象的な綺麗な城だった。さて、次は駅で蕎麦を食べよう。信州といえば、やはり蕎麦である。
(RICOH GR)
2018.02.06 Tue l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
久留里城
 久留里駅前から城址に延びる道は商店が少し並び、入口には天守閣を模したアーチが飾られていた。
 徒歩三十分くらいで低い山間の中にある城址の入口に着いた。
 尾根に上がっていくと、やがて資料館が現れたので入館。無料である。館内は久留里の歴史の紹介、甲冑や刀や槍、農耕器具の展示があり、なかなか面白かった。
 資料館を出て、更に道を登っていくと、井戸の跡もあり、本丸が近づいてきた雰囲気がある。すぐに本丸に到着。
 本丸には模擬天守が造られていて、そこに全国の現存天守(江戸期の天守)十二城が紹介されていた。
 私の興味は、戦後に造られた模擬天守ではなく、横にある天守台である。ここに建っていたであろう建物を想像して、この山の上の城を楽しんだ。
 久留里城は、戦国時代に房総半島を治めていた里見氏の拠点であった。このような山間に造ったのは、攻められにくいからだろう。もちろん、麓には城下町が形成されていたようである。
 帰りは裏道のような存在になっている山道ルートを通って帰った。このルートの方が、山の斜面に造られた堀切などを見学しやすいからだが、まあ、山道なので歩いている人は居ないだろう。そう思っていたのだ。しかし、好きな人は居るもので、ご婦人のグループが登ってきた。この急な道に苦戦しているようで、少し会話をして、私は麓に向かったのだった。
(RICOH GR)
2017.04.26 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
興国寺城
 原駅の方向に戻り、線路を超えて、しばらく歩くと、国道1号線に出た。国道を沼津方向に向かうと間もなく、興国寺通りという道を北に曲がる。
 根古屋という城下町を示す地名が出てきて、原駅から徒歩三十分ほどで、興国寺城の城址に到着した。
 興国寺城は、今川~北条~武田~徳川と、城の持ち主の武家が何度も変わった城で、それは駿河国の東部が領界の境だったゆえである。その歴史を示す説明版が本丸跡に建っていた。
 城址は、三の丸の途中に入口が設けられ、二の丸を抜けて、本丸に至る。圧巻なのは、本丸の後ろにそぼえる、高さ10m以上はあろうかいう土塁で、この上には櫓が築かれていたそうである。
 土塁の上からの眺望は素晴らしく、駿河湾が見えるほどなのであるが、原駅を出たあたりから空は曇り気味になっている。
 櫓が築かれていた土塁の裏は、大きな空堀が切ってあり、その向こうには新幹線の線路が通っている。数分おきに、電車が高速で駆け抜けていく走行音が聞こえる。
 じっくりと遺構を見学したあと、原駅に向かうことにする。城址は現在工事中。この城は、北条家初代当主の伊勢新九郎盛時(北条早雲)が、今川家から最初に賜った城という説があり、神奈川県、東京都、埼玉県、静岡県、岡山県の12市町が推進している、大河ドラマ「北条五代」が実現したら、観光客が訪れるようになるかもしれない。
 実際には、伊勢盛時はその頃、京の都で仕事をしている事が多く、この城に在任していた期間は短いとも言われる。それでも、「民のための国を作る」と、関東に拠点を作っていく北条家の礎となった地として、「国を興す」と書く、この城の名前は絶妙である。
 原駅に向かう道。空に雨雲が広がってきたと思ったら、雷が鳴り始めた。急いで駅に戻る。このあとは、沼津で史跡めぐりをするつもりでいたが、それはまたの機会としよう。
(SONY NEX-6 LENS:SONY SEL 16-50mm F3.5-5.6 PZ OSS)
2017.04.19 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
大和郡山城
 大和郡山の町並みを撮影しながら近鉄郡山駅のほうに出る。町の中心地はJRではなく近鉄の駅のほうで、これは元々、私鉄のほうが国鉄より発展していた関西ならではの立地関係である。
 近鉄の線路に沿って北に歩くと、すぐに大和郡山城の石垣が見えてくる。先ほどJR駅から歩いている途中、外堀公園という堀を埋めて作られた細い公園があったのだが、線路の外側にも道路沿いに石垣が残っていたりする。往時は、かなり立派な城下町だったようだ。
 城への入口は駅の近くだが、私は堀に沿って周囲を歩いてみた。堀の幅は10m以上あり、石垣の高さも堀と同格か、それ以上の規模。かつて、豊臣秀長(秀吉の弟)の居城だったということもあり、相当な規模の城である。
 郡山高校のグラウンドの脇を抜けると、江戸時代の城主であった柳澤家の資料を揃えた柳沢文庫と柳澤神社がある。参拝して境内を歩くと、その先に、しばらく工事中だった天守台がそびえていた。
 大和郡山城は現存天守の城ではなく、復元された天守閣はないが門の近くに復元櫓がある。櫓の横を通り、堀に沿って歩いていくと、本丸に向かって建っていたという極楽橋の跡があった。復元を目指しているそうで、実現したら是非とも見てみたい。イメージ図があったので、それを見ながら、当時の風景を想像してみる。
(FUJIFILM X100)
2017.04.05 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top