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九戸城
 九戸神社前バス停からバスに乗り、二戸市内に戻る。行きと同じ道である。残暑な天気で汗ばむ気温に、車内の冷房が心地よい。
 バスが二戸の市街地に入った頃、呑香稲荷バス停で降りた。その名のとおりの神社がすぐそばにある。神社の入口の先、今バスが走ってきた道を少し戻ったところに、九戸城の入口があった。
 道は住宅愛の路地みたいな風情だったが、やがて広い芝生に出る。大手口の跡だ。九戸城はかなり広いので、これから一時間以上をかけてじっくり見て回る。
 天正十九年(1591)に、豊臣秀吉は兵を起こし、奥州仕置を行なった。奥州とは東北のことである。
 前年に小田原北条家を討伐し、関東を手に入れた秀吉は名実ともに天下人となった。奥州は南側が伊達政宗、北側が南部信直、日本海側の北側が津軽為信、秋田周辺は秋田実季など、各地に秀吉が認めた大名が存在することになったが、天正十九年に行なわれた「太閤検地」を始め、秀吉のやり方に異を唱えた武将や民が一揆を起こした。そして、秀吉の命令によって一揆討伐が行なわれ、鎮圧された。
 代々、南部家の重臣であった九戸家の当主である九戸政実は南部家の当主南部信直に反旗を翻し、その結果、秀吉にも反旗を翻すことになる。
 もはや、天下人として従わぬ者など無きに等しい状況となっていた豊臣秀吉は、九戸政実を討伐することを目的に軍勢を起こし、京の都を出立させた。その軍勢のうち、六万五千人がこの九戸城を包囲。しかし、九戸政実は降伏せず籠城戦を開始した。
 城内を歩いていると風が気持ちいい。ここで大きな戦があったことを想うと、何とも言えない気持ちとなるが、東西南北を山並みが覆い、景色のいい城である。ひとつひとつの郭の間には巨大な空堀が築かれている。この城の敷地の外周には、馬淵川、猫淵川、白鳥川と三つの川が流れて自然の堀の役目を果たしている。この急峻な地形と、巨大な堀ゆえに、秀吉が発した上方軍は城を攻めあぐねたのだという。
 私達は二の丸にやってきた。ここで行なわれたことをTさんに説明する。
 籠城戦が長引き、雪の季節が迫ってきた。焦りを感じた上方軍は、現在の宮城県付近で待機している徳川家康軍に援護を依頼する。合わせると十万人を超える戦力となるのだ。更に、長興寺の住職薩天和尚を使者として和議を申し入れることになった。降伏して、政実を始めとした大将格の首を差し出せば、籠城している兵士と民の助命をするという内容だ。これを政実が受け入れ開城した。しかし、約束は反故され、上方軍は政実の居なくなった城内に攻め寄せ、民が避難していた二の丸に火を放ち、九戸城を落とした。
 後の発掘調査で、その残虐な出来事の言い伝えが本当であったらしい事がわかった。九戸政実の師匠である薩天和尚を騙して和議の使者として送り、騙し討ちを行なったのだ。そこまでするには、それ相応の理由が秀吉側、上方軍側にあったという事なのだろう。
 本丸跡に着いた。ここからは二戸の町が見下ろせる。戦の際には、城の四方を六万五千人の兵が埋め尽くしたという。その様相を想像しながら麓の景色を眺めた。九戸城に籠もった者、わずか五千人。その圧倒的不利な状況で戦には負けなかったのだ。全国のほとんどの武将が従ってしまった秀吉に、最後の抵抗を見せた武将。それが九戸政実だ。
 本丸跡の、町を見下ろせる場所にベンチがあった。木が並び涼しい場所だ。ここで昼食とした。Tさんから、「なんで長年全国的に知られていなかったこの戦が、近年になって知られるようになったの?」と質問を受けた。いつの時代も、勝者によって歴史は作られる。敗者が何を思い戦ったのか。その理由の多くは語られない。ましてや、勝者は戦そのものに勝った訳ではないのだ。秘しておきたかった事だろう。近年になって、小説によって知られるようになるまで、歴史マニアでも知る人が少なかったという人物なのである。奥州のため、この土地のため、巨大勢力に立ち向かった者が確かに存在したのだ。
 本丸から北の縁に沿って西に向かった。あまりに大きい城なので全てを見て歩くことは出来なかった。西の端に休憩所を兼ねた案内所があった。九戸政実を描いた漫画、この戦いにちなんだ史跡のガイド、それぞれが小冊子となって置いてある。九戸政実のファンである私は、すでにネット経由で入手しているので、Tさんがそれを持ち帰った。
(RICOH GR)
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2018.10.10 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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