東浦賀町
 浦賀城址を見て神社の入口に戻り、散歩コースは更に先に続く。久しぶりに来たら海沿いは宅地造成されてしまって風景が変わってしまった。確かに風光明媚な所ではあるので家を建てたくなる土地だとは思うけれど、歴史の町として風情ある町並みに感じられる浦賀の町はここにはない。新興住宅街といった風景である。
 その先の小さな港は健在で、嬉しくなってカメラを構える。住所でいうと東浦賀町から鴨居に変わるあたりで、このすぐ近くにかもめ団地という大規模な団地が海沿いにある。一戸建ての新興住宅街には風情を感じないが、団地は昭和の薫りを届けてくれる建造物に思えるので好きである。
(RICOH GR DIGITAL)
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2015.11.29 Sun l 横須賀東部(浦賀久里浜方面) l コメント (0) トラックバック (0) l top
浦賀城址
 叶神社の脇にある階段を登っていく。この小山は明神山という山で、山そのものが浦賀城の城址なのである。階段が結構急で、汗ばんでくるけれど木々に囲まれた道だ。
 途中、勝海舟が断食をした場所があり、頂は狭いながらも広場になっている。ここに本丸があったようである。(下記の叶神社の公式サイトのページに縄張り図あり)。

 浦賀城址

 この広場に叶神社の奥の院があり、近くには東照宮や神明社もある。つまり今登ってきた階段は参道ということになる。
 浦賀城址に関する説明版は東京湾と房総半島を望める箇所にあった。浦賀城は房総半島の里見家に対する防衛線として重視された城で、里見水軍に対抗する北条水軍の基地としての城でもあった。麓の海岸では船が造られていたようである。
 本丸跡から見える東京湾の見晴らしの良さに、ここが水軍の城であったという歴史を偲びながら、静かなひとときを過ごした。
(RICOH GR DIGITAL)
2015.11.28 Sat l 横須賀東部(浦賀久里浜方面) l コメント (2) トラックバック (0) l top
東叶神社
 京急に乗って浦賀駅にやってきた。久しぶりに降りたが改札口が改装されて広くなっていた。浦賀は細長い浦賀湾を挟んで西浦賀と東浦賀の町があるが、今回の散歩は東浦賀を歩く。
 駅から伸びる道は観音崎方面に向かっているためか、細い道の割には往来が多い。東浦賀の町の中心部といえる新町バス停のあたりから住宅街に入る。
 浦賀湾の渡し舟の乗り場の近くに叶神社がある。西浦賀にも同じ名前の神社があり、西叶神社と呼ばれ、こちら東浦賀の叶神社は東叶神社と呼ばれている。
 源頼朝が源家の再興を祈願したと言われるこの神社。幕末には勝海舟が咸臨丸の渡航の安全祈願をした神社としても知られる。源頼朝も勝海舟も願いが叶ったため、とてもご利益のある神社として多くの人々がやってくるという。
 階段を上がっていくと鳥居の向こうに浦賀湾が広がっている。

叶神社 公式ホームページ

(RICOH GR DIGITAL)
2015.11.26 Thu l 横須賀東部(浦賀久里浜方面) l コメント (0) トラックバック (0) l top
玉縄城址
 七曲坂を登りきると大手門跡がある。その跡地の上にそびえる丘は現在女子校になっている。そのため裏門によって仕切られていて立入禁止となっている。しかし、その裏門には、かつての大手門のイメージイラストと説明版が建っていて、それと見比べることで現在の風景に往時の風景を重ねてみることが出来る。
 学校のある場所がかつての本丸跡で、この門の上はテニスコートがあるそうである。そこに向かって丘を巻くように坂道が右方向に伸びていたのがかつての大手道ということになる。
 女子校ということで警備は城のごとく固いと思われるけれど、事前に学校に見学希望を申し出て許可を取れば学校の休校日に限り城址の遺構の見学が出来るそうで、本丸跡に鎮座するこの学校はある意味史跡を守っている存在と言えなくもない。そう思いたくなるのは、見学を許可しているからだけでなく、付近のあまりの開発ぶりに驚いたからである。龍寶寺がある麓から眺めた感じでは普通の山に見えたが、こうして上に上がってみると一戸建て住宅が密集しているのだった。それも割と新しめの家も少なくなく、おそらくバブルくらいの頃から急速に開発が進行したのだろう。
 そういうわけで、大手門跡からは住宅街の道である。玉縄城は北条家にとって鎌倉を守るための重要な城であったため大変広い城であったようで、その面影を偲びながら住宅街を歩く。本丸跡のまわりの坂をいくつか行ったり来たりしたあと、陣屋坂を下りて城址探訪は終了。大船フラワーセンターの前を通って大船駅に向かう。
 途中、戦国時代の戦没者を弔った塚があったので手を合わせる。1526年(大永六年)に安房の里見軍が三浦半島から上陸して北条軍と戦になった時に亡くなった人たちを供養した塚で、六地蔵とも呼ばれている。駅前を包む空はだいぶ夕方の色になってきていた。
(PENTAX K-01 LENS:smc PENTAX DA21mm F3.2 Limited)
2015.11.25 Wed l 鎌倉 l コメント (0) トラックバック (0) l top
玉縄城
 龍寶寺から玉縄城址に向かう前に、すぐ近くにある植木小学校の門を見に行く。この学校の校門は城の大手門を模したような造りになっていて見応えある。こういうところにも玉縄がかつて城のあった町であるという面影が感じられて好ましい。
 道路を渡って西側に出る。住宅が並ぶ脇を抜けて山の麓に向かうと近年できた幼稚園がある。その横の坂道が玉縄城の本丸に至る七曲坂である。入口に説明板もあった。
 山の斜面を登っていく坂道は視界が開けていて見晴らしが良い。ボランティアの人達によって造られた冠木門がいい雰囲気を出している。坂の中腹には小さな広場があり、そこから下の道や住宅街を見下ろせる。玉縄北条家第四代当主北条氏繁の正室(小田原北条家第三代当主の北条氏康の娘)は、この七曲坂付近に屋敷を構えていて七曲殿と呼ばれていたそうである。昔はもっと眺望の良い場所であったに違いない。
 坂は登り始めて数分で住宅街に入っていく、現在は本丸跡の下は家が密集しており、ここが城址であるという雰囲気をもっとも残しているのが今登ってきた七曲坂の麓から中腹の部分なのかもしれない。
(PENTAX K-01 LENS:smc PENTAX DA21mm F3.2 Limited)
2015.11.23 Mon l 鎌倉 l コメント (0) トラックバック (0) l top
龍宝寺
 龍寶寺は玉縄北条家第三代当主である北条綱成(つなしげ)が建立した瑞光院を、第六代当主である氏勝が父親である第四代当主氏繁(綱成の息子である)を弔うためにこの地に移築したものだそうで、本堂から正面に玉縄城のある山を見ることが出来る。
 庭も広く、本堂に上がる階段からの眺めも良く、緑に囲まれたいい景色の所である。これから玉縄城址にお邪魔させていただくので挨拶をということで本堂で手を合わせる。
 門の近くには「玉縄ふるさと館」という施設があるので入館。入ると六代に亘る玉縄北条家の当主と北条家の始祖北条早雲(伊勢宗瑞)の名が書かれた旗差しが並び、中には玉縄城の模型があった。
 玉縄北条家は北条家に於いて小田原北条家に次ぐ重要な存在として、鎌倉を守る玉縄城に在任してきた家系であります。そういう由緒ある家系と城、その菩提寺。地元の人がこの歴史を大切に紡いでいこうという気持ちのこもった空間でありました。

玉縄城址まつづくり会議 -玉縄ふるさと館- 

 上記のサイトのタイトルの所に黄色に八幡と書かれた旗差しが表示されていますが、これは玉縄北条家第三代当主の綱成のトレードマークといえる旗差しで、「地黄八幡」(じきはちまん)と呼ばれ関東の武士たちに畏敬を持って伝わった、武勇の証と言える旗差し。その「地黄八幡」にあやかって黄色いカメラ、ペンタックスK-01を持ってこれから玉縄城址に向かう。
(PENTAX K-01 LENS:smc PENTAX DA21mm F3.2 Limited)
2015.11.22 Sun l 鎌倉 l コメント (0) トラックバック (0) l top
龍宝寺
 大船駅の西口にあるバスターミナルにやってきた。駅からのデッキ通路で川を越えた所にあるその場所は、小さな谷が開けたような空間である。そこからバスに乗る。
 藤沢駅北口行きのバスに乗って10分と経たずに目的地の植木谷戸バス停に着いた。西は小山がそびえ、南側、つまり今バスが通ってきた方向にはトンネルがある。前方も緩やかな丘陵で、道路が少し上り勾配になっている。人家はそれなりにあるが、人工物よりも自然物のほうが多い。そんな眺めである。
 バス停からトンネルの方向に少し戻り、道路を渡るとお寺がある。玉縄(たまなわ)北条家の菩提寺である龍寶寺(りゅうほうじ)。今回の史跡探訪はここから始まる。
(PENTAX K-01 LENS:smc PENTAX DA21mm F3.2 Limited)
2015.11.21 Sat l 鎌倉 l コメント (0) トラックバック (0) l top
浮島
 今回は機材の話を。
 自分はある時期から一眼レフはαシリーズ、つまりAマウントをメインで使うようになった。同時にクラシックカメラ趣味としてミノルタのMF一眼レフも使っていたので、つまりがミノルタレンズの写りが好きでそうなったのだと言える。
 いろんなメーカーの機材を使っている方によるレンズに関するよもやま話を読んでいると、大抵真っ先に出てくるブランド名はツァイスだったりする。やはりツァイスは特別なのだなと思うし、作例を見ても(多少の先入観はあるにしても)そう感じる。更に他のメーカーは?となるとここからは個人の好みの問題も出てくるので難しいところではあるけれど、複数のメーカーの名前を挙げるようなニュートラルな思想を持つ人の選ぶレンズ評にミノルタαのレンズが出てくることは決して少なくない。プロアマ問わず他の人が撮った作例を見ていて写りが良いと感じられてαに移ってきた自分は、そういう意見を読むのは楽しいし嬉しい。
 そんな自分だが、αレンズの名レンズ、或いは「α使っているならこれを持っておくべし」と言われるようなレンズをあまり持っていなかった。ユーザーの中で割と評判のいいレンズはあっても、「これぞ名作」(良いレンズ、カメラは作品という表現をしても良いかなと思う)と言われるようなレンズが手元に不足している。これは人に「αならではという一本を見せてください」と言われた時に出せるものが足りないという事である。
 具体的に言うと、αにしかないSTFレンズ、厳重なクオリティコントロールの元に生産されているGレンズ、或いは生産数の少ない100mmソフトフォーカス200mmマクロ(これはニコンと共同開発で同じ仕様のニコン版もある)やAFマクロズーム3x-1x(等倍以上の撮影が出来る魔法のレンズ)のことである。三番目のいわゆる写りと希少価値がプライスレスなレンズに関しては。100mm F2という短い期間しか生産されなかった名レンズを持っているが、一番目と二番目を持っていなかった。
 そんな私が今年、遂にGレンズを手に入れた。以前から作例を見て欲しいと思っていた200mm F2.8Gである。使い勝手を考えるとズームのほうが良いのだが、ボケの綺麗さと本体の重さ(80-200 F2.8Gの約半分である)が決め手となった。あるアマチュアαユーザーのブログに「このレンズを買って、良いレンズとは何かという事に目覚めた」と書かれてあったのを読んだことがあるが、人をそれほどまでの気持ちにさせてくれる一本なのである。
 キヤノンの高級望遠レンズは白レンズと呼ばれている。熱対策としてそういう塗装がされているわけで、それは高校野球を撮るカメラマンからの要望でそうなったと聞いたことがあるけれど、このミノルタの望遠レンズも白い。キヤノンのは少しグレーっぽい色味だけれどミノルタのはもっと白い。塗装が弱いという欠点がこのレンズにはあって、自分が買ったのも少し色が剥げている箇所がある。
 前玉に使われている特殊なガラスが非常に柔らかく傷がつきやすいため、保護フィルターが付属するという仕様だと購入前に調べていて知ったが、私が購入した品物には付いていなかったので、中古でその付属のミノルタ純正フィルターを見つけて買った。フィルター径は72mm。レンズは割と細身なので前玉が大きく見える。
 面白いのはピントリングにカバーが付いていることで、AFで使う時はカバーを引き出してピントリングを隠せるデザインになっている。ミノルタとしては、あくまでAFで使って欲しいということなのだろう。AF一眼レフのパイオニアな会社としてのプライドだろうか。
 デザインの点でひとつ不満なのはフードだ。厚手なフードが収納式になっているのだけれど、引き下げた際にロックがかからないため、レンズを下向きにするとフードが下がってしまう。これが意外と鬱陶しいというかう安っぽく感じてしまうのである。まあ、それ以外はとても気に入っている。買って良かったと心から思える一本なのである。
 このレンズ、だいぶ前にカタログから消えている。ミノルタはαのデジタル移行期に70-200mm F2.8G SSMというレンズを出した。このレンズがとても良く写る一本なので単焦点200mmの役目は終わったと判断されたのだろう。ソニーになってからもこのズームは継続販売さて最近モデルチェンジもしているが、200mm F2.8が復活する気配はない。それだけにオンリーワン感が漂い、ますますαレンズ群の中の魅惑の一本としての輝きはいまだ消えずといったところなのである。あとは使い手である私がもっとスキルを磨いていけば更に魅力的な一本として楽しめると思う今日この頃である。
(SONY α700 LENS:MINOLTA High Speed AF APO TELE 200mm F2.8G)
2015.11.18 Wed l 川崎南部・鶴見 l コメント (0) トラックバック (0) l top
吉田町
 東の方向、つまり海に向かって歩いていく。南吉田町に入ると歩道に吉田町の歴史についての説明板がいくつか現れ始めた。江戸時代に埋め立てが行なわれるまでは、野毛から山手にかけては入江だったそうで、確かに野毛と山手は急な崖がそびえ、町は高台に位置している。江戸時代にその入江の部分を埋め立てて現在の伊勢佐木町から黄金町、南太田のあたりまでの町の部分が形成された。それを吉田新田という。
南吉田町内会 -吉田新田ができるまで-
 現在のこのあたりの風景は昭和な古い建物とマンションが混在したもので、その古い建物の眺めに注目してしまうけれど、こういう風景がいつまで存在するかは定かではない。町の景色は常に変化していくものなのだ。
 伊勢佐木町の辺りは年に何度も出かけているけれど、そこから奥に行くことは少ない。こうして歩いていると古くて新しい新鮮な景色なのである。
(RICOH GR DIGITAL)
2015.11.17 Tue l 横浜港周辺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
吉野町
 京急線の南太田駅で降りた。ここから北東の方角に歩いていき、交差点を曲がって大岡川を越えると地下鉄の吉野町駅が近づいてくる。地下鉄の駅があると言っても付近は下町風情で、古い建物も多い。そんな町を歩いているのでカラーではなく白黒にしてシャッターを切った。
(RICOH GR DIGITAL)
2015.11.16 Mon l 横浜港周辺 l コメント (0) トラックバック (0) l top
小机城址
 一旦山を下りて横浜線の線路に沿って細い道を西に歩く。すぐに第三京浜道路の大きなガードがあり、そこをくぐる。この自動車専用道路は城址をえぐってひとつの山を東西に分けてしまっている。道路をくぐるとすぐに階段があり、そこを上がると城址の西側となる。
 こちらは東側に比べて面積も小さく、ひたすら山道といった風景だが、富士山元という小さな見張台のような場所があった。そこから北の方角に歩くと小さな畑の跡らしきものが現れ、その先に石碑が建っていたので手を合わせる。
 これで小机城址の訪問は終わり、小机駅方面に向かうのだけれど、まだ時間があったのでお隣の新横浜駅まで歩いてみた。小机城址のまわりののどかな農村風景からだんだんとビル群へと変わっていく景色に、ここが横浜であることを再認識させられた。都会の中に残る小机城址。道路で分断されているとはいえ、山の中は今も中世の面影をほんのりと感じられる。横浜という都会にあって貴重な空間かもしれない。
(iPhone5)
2015.11.14 Sat l 川崎北部・横浜港北 l コメント (0) トラックバック (0) l top
小机城址
 本丸跡から再び山道を歩く。少し上ったところに二の丸跡があり、その手前に櫓台があった跡がある。もう櫓そのものはないけれど、その跡は少し高くなっていて、上がってみると二の丸をよく見渡せる。
 説明板を読んでいると夫婦と思われる二人組がやってきた。解説を読んでいたから地元の人ではなく、城址を見に来た人のようである。小机に到着する前は自分しか訪問者がいないのではないかと想像していたが、短時間の間にもこうして何人も訪れている。いずれも地元の人が散歩で来ている雰囲気ではない。城址巡りが一般的になってきているという話題が城址関連の書籍に書いてあったりするが本当のようだ。
 二の丸跡から道を下りていく。帰りは別なルートを使って歩く。竹が見事に並ぶ林、足元にはタケノコを無断で採らないでくださいという注意書きがあった。
(iPhone5)
2015.11.12 Thu l 川崎北部・横浜港北 l コメント (0) トラックバック (0) l top
小机城址
 冠木(かぶき)門をくぐって本丸跡にやってきた。広い芝生広場といった雰囲気で、なぜか端にネットが備えつけられている。近づいてみると、ネットの前には野球のピッチャープレートもあった。敷地の広さから想像すると、ここは少年野球用の練習場になっているらしい。
 先ほどの空堀の所にいた女性たちは坂を下りていったし、その間に一人で散策していた女性も出口に向かっていったので、今この敷地に居る人は私と駅前から近くを歩いてきたおじいさんだけなようだ。竹に囲まれた城山は静かな所かと思ったが、山をくりぬいて造られた第三京浜道路が脇をかすめているため車の走行音が絶えず響く。
 本丸跡を少年野球の練習場にする事はあまり違和感は感じないが、城山をくりぬいて道路を造るのは嘆かわしく思える。少し西にルートを曲げるだけで、それをしなくて済んだものを。そんなことを思いながら車が発する音を聞く。
(iPhone5)
2015.11.11 Wed l 川崎北部・横浜港北 l コメント (2) トラックバック (0) l top
小机城址
 空堀の上に架かる土橋の上で写真を撮っていたら後ろから声が聞こえてきた。振り返ると女性三人が雑談をしている。そして、空堀を背景に自撮りを始めた。数年前からの戦国人気で女性の歴史好きが急増したという話は聞くし、実際に城に行くと女性の姿も結構多い。でも、戦国好き女子の傾向を見ていると北条家というか関東武士は残念ながら人気今ひとつに思える。
 しかし、私には何となく見当がついていた。違っているかもしれないが、彼女たちが小机城址に来た理由は私のそれと大体同じなのだ。彼女たちが単なるちょっとした散歩で来たのではないとすればだが。
 小机城は北条家が整備してからは小机衆と呼ばれた人々が城兵として用意された。城主は小田原の北条家からやってきて、それは天正18年(1590年)に小田原城が開城するまで続いた。小机城城主についての史料とその解釈は近年まで謎な部分もあったが、だいぶ解明されてきたようだ。小田原北条家第三代当主北条氏康の子である三郎も僅かな期間(二ヶ月らしい)小机城城主となっている。三郎が僅かな期間しか城主を務めなかった理由は、城主となってすぐに上杉家との同盟の人質(証人)として越後に行ってしまったからである。
 三郎は越後に来てすぐに上杉謙信の養子になり、謙信の若き頃の名である景虎の名をいただき上杉景虎と名乗った。そう、この女性たちはおそらく三郎のファンではないかと予想する。私も「あの三郎殿が城主を務めた城」を見たくてやってきたのである。
 三郎、というか上杉景虎はとある人気小説に登場し、その小説のファンの人達が聖地巡りをしていることは少し検索すると発見できる。
 どういう形であれ、歴史の中の人を尊敬の気持ちで想い、ゆかりの地を訪れるのはいい事ではないかと思っている。私もこうして歴史人に想いを寄せながら城址にやってきて感慨に更けている。道は空堀の先の冠木門に続いている。その向こうは本丸跡である。400年以上前に歴代の城主や城代がこの道を歩いたのである。
(KONICA KD-310Z)
2015.11.10 Tue l 川崎北部・横浜港北 l コメント (0) トラックバック (0) l top
小机城址
 小机城址の一番手前側にある入口に向かう。私の前を歩いていたおじいさんも城址の入口に入っていった。
 入口にはトイレもあり、現在は市民の森として公園になっている。ここは首都圏にある割に遺構が結構いい保存状態だそうであるが、それは公園として保護されているからなのかもしれない。
 入口には城址の中の地図、そして説明の書かれた案内板がある。入口からすぐ登りになり、竹の生い茂る山の中に入っていく。
 小机城は築城時期や誰が築城したかははっきりしていないようだけれど、太田道灌が1478年にこの城に逃げ込んだ豊島泰経を攻撃したという記録があり、その戦で亡くなった兵を弔った塚が付近にある。その後、小田原北条家が整備して小机衆をを結成。北条家から城主が送りこまれていく。
 登り始めてすぐに大きな空堀が現れた。幅もあり、なかなか迫力がある。iPhoneを取り出しパノラマモードで撮影してみたが、その迫力はうまく表現できず森の中で試行錯誤していると、後ろから女性の話声が聞こえてきた。
(iPhone5)
2015.11.09 Mon l 川崎北部・横浜港北 l コメント (0) トラックバック (0) l top
小机
 秋晴れのある日、こんな日は城址散策だ!ということで、最近すっかり城址散策にハマっている私は横浜線に乗って小机にやてきた。
 小机は新横浜の隣で、日本最大の観客収容数を誇るスタジアム(約7万人収容)横浜国際競技場(日産スタジアム)の一応は最寄駅でもある(多くの観客は新横浜駅を利用するが)。改札を出るとスタジアムのイベントスケジュールが掲示された案内板があり、北口に下りていく階段にはマリノスの選手の大きな写真が飾ってある。
 北口は駅前ロータリーもなく、広がる景色は畑である。その畑の向こうに銀色の巨大なスタジアムが建っている光景はシュールですらあるが、スタジアムとは反対方向にそびえる山の風景が自然に溢れた農村風景を更に強めて、この町の風景のビューポイントを複雑にしている。
 これから私が向かうのはこの山である。この山が小机城址なのだ。畑と横浜線の線路に挟まれた道を10分ちょっと歩く。やはて小机城址の案内板と入口が現れる。
(KONICA KD310Z)
2015.11.08 Sun l 川崎北部・横浜港北 l コメント (0) トラックバック (0) l top
抹香町
 こういう路地を歩いていると野良猫に会いそうな予感がある。その予感は的中して、すごぶる古びた民家の軒下に居た。身を低くして近づきカメラを向けるも2m以内に近づいたら逃げてしまった。二階は旅館並みの見事な木製のベランダを備えた家を見上げてその場を去る。
 建物の造りや古さにこの町が抹香町と呼ばれていた頃の風景を感じとって歩いているけれど、違う町名になった現在は歩く人も少ない静かな住宅街である。ふと路地の角から女性が出てきた。その人の歩く先にスナックがあった。女性は更に駅の方向に歩いていってしまったけれど、細い路地に一軒だけ建っているスナックに気分を感じ、ほんの一瞬だけ長太郎の時代に立った錯覚に陥いる。
(RICOH Caplio GX100)
2015.11.07 Sat l 小田原 l コメント (0) トラックバック (0) l top
抹香町
 抹香町は細い路地が縦横に交差する町で、私はくねくねと歩きながら町を見て回った。もちろん今は普通の住宅街なのだけれど、木造の建物を見かけると川崎長太郎が通った往時を想像しながら、この風景を昭和なものに変換しながら歩いた。
(RICOH Caplio GX100)
2015.11.06 Fri l 小田原 l コメント (0) トラックバック (0) l top
抹香町
 渋取川は北条時代の小田原城の外堀のような川であった。当時の小田原は城を中心とした戦国期有数の巨大城郭都市で、川を天然の堀として位置づけていたようである。近くの新玉小学校の横には北条家が築いた土塁の跡が残っていて、そこに小田原空襲の際に米軍機が爆弾を落とした跡が残っているという事を書かれた説明板があった。
 抹香町(まっこうちょう)の中に入っていくと、道は細く路地が交差する。今は静かな住宅街で、予備知識がなければ路地の多い一画だなと思うくらいで通り過ぎそうな町だけれど、意識してよく見ると雰囲気が残る建物が結構ある。改築されている建物でも当時の造りを踏襲したようなデザインで建てられているので、町全体はなんとなく往時の面影を偲べる風景ではある。
 それにしても、想像していたよりも昭和な空気の残る町だ。川崎長太郎が歩いた頃はもっと違う風景だったとして、それでも想像を膨らませることの出来る風景である。
(RICOH Caplio GX100)
2015.11.03 Tue l 小田原 l コメント (0) トラックバック (0) l top
抹香町
 宮小路から国道を更に東にずっと歩いていくと、小田原城江戸口見附跡の説明版があった。このあたりに土塁を築いて豊臣軍の侵攻に備えたという場所という事だが、この場所を目印に脇道に入っていく。いよいよ抹香町である。現在はこの町名は消滅している。
 抹香町は地図で見ると細い路地が碁盤の目のように縦横に交わっているが、手前にゆるいカーブをした道が現れた。この道の下を渋取川という小川が流れている。
(RICOH Caplio GX100)
2015.11.02 Mon l 小田原 l コメント (0) トラックバック (0) l top