FC2ブログ
下田城
 伊豆急下田駅から町の通りを歩き20分ほど、下田城址にやってきた。入江に面して立つ下田公園がその城址である。
 駐車場の脇に下田城址と書かれた石碑が立っていて、これが入口だ。道はなだらかな登りだが舗装されているので歩きやすい。少し登ると開国広場という所に出た。城の曲輪にも思えたが、そういう訳ではなく後から造った敷地なようである。
 現在の下田城址はこのようにペリーの公園といいた趣きだが、もう少し登っていくと城についての説明版があった。
 下田城は北条水軍の城である。豊臣秀吉がいよいよ小田原に攻めてくることが真実味を帯びてきた頃、水軍の拠点城として整備された。町に近い場所にあるが山城である。下田の町を見下ろすことが出来た。
 天正十八年(1590)の小田原合戦において、この城は一万を超える西国の水軍に攻められ、僅か六百人という軍勢で約50日間持ちこたえたという。城将は清水康英。合戦後、清水康英は出家して河津の寺に入ったという。
 大軍を相手に持ちこたえたという堅城だけあって、上がっていくにつれて険しい地形となっていく。頂にある本郭はさして広くないが、周囲に張り巡らされた空堀や堀切が見事だ。三島の山中城にもある障子堀という、堀に土を盛って区画した造りもある。これは堀に落ちた敵兵がたやすく脱出できない構造である。
 案内板も整い、コース上は舗装されていたりするので、ハイキングとして歩きやすく整備されている。これも公園化されたからこそだろう。惣蔵していたより観光客の姿を見かけたのも、それが理由だと思った。下田市内の観光地としてはマイナーな存在ではあるが、下田を訪れた際には是非足を運んでほしい場所である。かつて、この町が戦場となった事を示す貴重な遺構なのである。
(FUJIFILM X100)
スポンサーサイト



2020.01.15 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
結城
 土浦から常磐線で友部に出て、水戸線に乗り換えた。目指すは結城である。結城で降りるのは初めてだ。
 左窓に筑波山を眺めながら、午後の暖かな陽に包まれた結城駅に着いた。ロータリーは大きいが駅前から延びる道路は細く、商店街というほど店は多くない。だが、歩いていくうちに店が増えて、かつて結城藩の藩庁が置かれた町としての賑わいの面影が現れてきた。
 私が向かっているのは結城城だ。町はずれの台地にあるようだが、駅からは遠い。推定40分と見込んで歩き始めたが、途中で道を間違えたりしたため、一時間ほどかかって到着。
 城址は公園になっている。城址に辿り着くまでの道がゆるい上りになっており、公園の裏は台地の下の広大な畑である。
 隣接する神社に参拝して、本丸跡の公園を歩いてみるが、特筆するようなこともない。一応説明版はあるが、それ以外に歴史を感じさせる遺構はほとんどないように思えた。
 結城城は室町時代に結城合戦の舞台となり、戦国時代は小田原合戦以降、徳川家康の次男が結城家に養子に入って結城秀康と名乗った。そういう歴史のある地である。
 城址のある台地は住宅地となっており、開発によって遺構の多くは失われたように思えた。しかし、公園の入口に空堀らしき窪地があった。説明板が立っており、やはり空堀だとわかる。その空堀に沿って住宅地を回ってみた。
 竹藪のような林の中に空堀は続いていく。歩いていくうちに公園の入口に戻ってきた。なんてことはない散策だが、城の遺構が見られたので満足だ。
 帰りは別の道を選択した。そこは格子戸の店や、蔵の残る店など、江戸時代の雰囲気が残る道だった。想像していたよりも旅情が感じられる町で、妙に観光地化していないのが、情緒溢れる景色に繋がっているのかもしれない。
 来てよかったと思いながら、夕方の日差しの中を水戸線で小山に向かい、帰路に就いた。
(PENTAX Q LENS:PENTAX 02 STANDARD ZOOM(135判換算27.5-83mm F2.8-4.5)
2019.04.21 Sun l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
土浦城
 今回から少しの間、春の青春18きっぷ旅の話になります。旅の雰囲気を簡潔にまとめるため、組写真となり一枚あたりの圧縮度が高まり画質が劣化しますが、ご了承ねがいます。

 常磐瀬に乗って土浦にやってきた。正月に関東鉄道竜ヶ崎線に乗った帰りに土浦に寄り道して以来で、今年二回目の訪問である。
 前回、時間がなくて土浦城に行けなかったので、今回は場所を地図で確認してからやってきた。
 土浦城は町中にある。江戸時代からこの地域を代表する町だったので、その面影はほのかに残っている。城が近づくにつれて細い小路が現れ、かつての隆盛が偲ばれる風景となってきた。むろん、今は他の地方都市がそうであるように、商業施設の中心は町中から郊外に移っている。
 平安時代に平将門の砦として築かれたという伝承がある土浦城。文献上では、若泉氏に始まり、菅谷氏の城となり、小田原合戦後は結城氏、松平氏、朽木氏を経て土屋氏の城となった。
 土浦の町が水害にあった時、水に浮かぶ姿が亀の甲羅に似ていたことから「亀城」という呼び名もある。
 現在は公園となっているが、入口の霞門と、その奥の本丸前に設けられている櫓門は江戸時代のものである。櫓は戦後復元されたものだが、この門はさすがに風格があった。
 公園として整備され、横には博物館。敷地にはミニ動物園もある。市民の憩いの場といったところで、実際、散歩をしている市民が多数いた。町中にある城ならでは
といった感じである。
 城を見たあとは、常磐線の線路寄りに移動し、サイクリングロードに転用された筑波鉄道の廃線跡の入口を見てから駅に向かった。ここからは常磐線と水戸線に乗り継いででいく。
(PENTAX Q LENS:PENTAX 02 STANDARD ZOOM(135判換算27.5-83mm F2.8-4.5)
2019.04.20 Sat l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
九戸城
 九戸神社前バス停からバスに乗り、二戸市内に戻る。行きと同じ道である。残暑な天気で汗ばむ気温に、車内の冷房が心地よい。
 バスが二戸の市街地に入った頃、呑香稲荷バス停で降りた。その名のとおりの神社がすぐそばにある。神社の入口の先、今バスが走ってきた道を少し戻ったところに、九戸城の入口があった。
 道は住宅愛の路地みたいな風情だったが、やがて広い芝生に出る。大手口の跡だ。九戸城はかなり広いので、これから一時間以上をかけてじっくり見て回る。
 天正十九年(1591)に、豊臣秀吉は兵を起こし、奥州仕置を行なった。奥州とは東北のことである。
 前年に小田原北条家を討伐し、関東を手に入れた秀吉は名実ともに天下人となった。奥州は南側が伊達政宗、北側が南部信直、日本海側の北側が津軽為信、秋田周辺は秋田実季など、各地に秀吉が認めた大名が存在することになったが、天正十九年に行なわれた「太閤検地」を始め、秀吉のやり方に異を唱えた武将や民が一揆を起こした。そして、秀吉の命令によって一揆討伐が行なわれ、鎮圧された。
 代々、南部家の重臣であった九戸家の当主である九戸政実は南部家の当主南部信直に反旗を翻し、その結果、秀吉にも反旗を翻すことになる。
 もはや、天下人として従わぬ者など無きに等しい状況となっていた豊臣秀吉は、九戸政実を討伐することを目的に軍勢を起こし、京の都を出立させた。その軍勢のうち、六万五千人がこの九戸城を包囲。しかし、九戸政実は降伏せず籠城戦を開始した。
 城内を歩いていると風が気持ちいい。ここで大きな戦があったことを想うと、何とも言えない気持ちとなるが、東西南北を山並みが覆い、景色のいい城である。ひとつひとつの郭の間には巨大な空堀が築かれている。この城の敷地の外周には、馬淵川、猫淵川、白鳥川と三つの川が流れて自然の堀の役目を果たしている。この急峻な地形と、巨大な堀ゆえに、秀吉が発した上方軍は城を攻めあぐねたのだという。
 私達は二の丸にやってきた。ここで行なわれたことをTさんに説明する。
 籠城戦が長引き、雪の季節が迫ってきた。焦りを感じた上方軍は、現在の宮城県付近で待機している徳川家康軍に援護を依頼する。合わせると十万人を超える戦力となるのだ。更に、長興寺の住職薩天和尚を使者として和議を申し入れることになった。降伏して、政実を始めとした大将格の首を差し出せば、籠城している兵士と民の助命をするという内容だ。これを政実が受け入れ開城した。しかし、約束は反故され、上方軍は政実の居なくなった城内に攻め寄せ、民が避難していた二の丸に火を放ち、九戸城を落とした。
 後の発掘調査で、その残虐な出来事の言い伝えが本当であったらしい事がわかった。九戸政実の師匠である薩天和尚を騙して和議の使者として送り、騙し討ちを行なったのだ。そこまでするには、それ相応の理由が秀吉側、上方軍側にあったという事なのだろう。
 本丸跡に着いた。ここからは二戸の町が見下ろせる。戦の際には、城の四方を六万五千人の兵が埋め尽くしたという。その様相を想像しながら麓の景色を眺めた。九戸城に籠もった者、わずか五千人。その圧倒的不利な状況で戦には負けなかったのだ。全国のほとんどの武将が従ってしまった秀吉に、最後の抵抗を見せた武将。それが九戸政実だ。
 本丸跡の、町を見下ろせる場所にベンチがあった。木が並び涼しい場所だ。ここで昼食とした。Tさんから、「なんで長年全国的に知られていなかったこの戦が、近年になって知られるようになったの?」と質問を受けた。いつの時代も、勝者によって歴史は作られる。敗者が何を思い戦ったのか。その理由の多くは語られない。ましてや、勝者は戦そのものに勝った訳ではないのだ。秘しておきたかった事だろう。近年になって、小説によって知られるようになるまで、歴史マニアでも知る人が少なかったという人物なのである。奥州のため、この土地のため、巨大勢力に立ち向かった者が確かに存在したのだ。
 本丸から北の縁に沿って西に向かった。あまりに大きい城なので全てを見て歩くことは出来なかった。西の端に休憩所を兼ねた案内所があった。九戸政実を描いた漫画、この戦いにちなんだ史跡のガイド、それぞれが小冊子となって置いてある。九戸政実のファンである私は、すでにネット経由で入手しているので、Tさんがそれを持ち帰った。
(RICOH GR)
2018.10.10 Wed l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top
九戸村
 二戸駅は東北新架線の駅も設けられているので、構内はとても綺麗だ。西口に通じる通路に九戸政実ののぼりが立ち、九戸城のパンフレットが置いてあったので、さっそく頂いた。
 西口は新幹線が近年開通してから整備されたようで、真新しい土産物屋があった。帰りは此処で何かしら買うことになるだろう。私達は駅のコインロッカーに荷物をしまい、喉が乾いたというTさんのリクエストに応え、土産物屋で地ビールを買ってバスの待合室に向かった。二日目の朝の秋田駅、三日目の夕方の花巻駅に続き、今日もコインロッカーのお世話になる日である。
 東口は昔ながらの風情を残していた。狭い駅前通りには僅かながらの駅前商店街が形成されている。私が初めて東北を旅した時、盛岡で新幹線から特急に乗り継ぎ、旅で最初に降りた駅が、この二戸だった。ちなみに「にのへ」と読む。これからバスで向かうのは九戸村で「くのへ」と読む。
 二戸駅から出たバスは橋で馬淵川を越えると、市街に出た。山間の僅かな平地に築かれた町である。市街の脇に見える丘は九戸城の城址だ。
 市街を抜けると道は上りになり、しばらくは家並みが続き、店もちらほらあったが、やがて峠越えとなる。折詰トンネルという長いトンネルを抜けると、高原のような風景となった。九戸村である。
 30分弱のバス旅は長興寺バス停で降りた。ある程度の場所は記憶してきたが、バス停の周りにはそれらしき景色はない。ちょうど道路工事をやっている人がいたので、交通整理を担当していた人に道を尋ねた。
 バス停としては次の長興寺小学校前の方が近いようだったが、無事に長興寺に着いた。ここは九戸家の菩提寺であり、九戸政実の生誕の地と言われる。政実については、二戸市内に帰ってきてから解説する。
 九戸家の家紋がある本堂の前で手を合わせ、脇に立つ大銀杏を眺める。九戸政実が出陣の際に植えたと伝わる。かなり古い木で、それだけの年月を過ごしてきたのだと実感できる風格があった。
 天正十九年(1591)に行なわれた豊臣秀吉の奥州仕置。当時、長興寺の住職だった薩天(さつてん)和尚は九戸政実の師匠であった。九戸城での籠城戦にて開城勧告の使者として城に入ったのが、薩天和尚だった。そして、戦は終わり、その後に悲しい結末が待っているのだが、それは九戸城の話の時に書こう。
 私達は長興寺から南に少し行ったところにある九戸神社に向かった。道路から神社まで、思っていたより遠かったが無事に到着。
 九戸神社は、九戸政実が戦勝祈願を行なった社とも言われる。緑に包まれた静かな社である。九戸政実公に訪問の挨拶をする気持ちで、本殿で手を合わせた。
 九戸神社の手前の林には、九戸政実が処刑された後、家臣がこっそり持ち帰った首を埋め祀った首塚もある。私達はバスの時間が気になってきた頃で早足になっていたので、林の中までは行けなかった。私は心の中でそっと手を合わせるのだった。
 道路に戻ると、そこに九戸神社前のバス停だ。なんとかバスに間に合った。本数の少ないバス路線に乗って、あちこちを回るのは中々大変であるが、とても心に残る風景である。空の青さと、山並みの美しさ。青森県との県境も近い。遠くにやってきたという実感があった。
(RICOH GR)
2018.10.09 Tue l 神奈川県外の戦国史跡 l コメント (0) トラックバック (0) l top